マルセル‐デュシャン(Marcel Duchamp)という作家が、アメリカ‐アーモリーショー(兵器庫展)で「階段を降りる裸体」という連続写真的時間差描写の作品を発表したのが1912年。この時、アメリカの美術界はてんやわんやの大騒ぎになりました。更にアメリカ‐アンデパンダン展で、「泉」という使用済み小便器の作品を発表したのが1917年。この衝撃たるや、アメリカの美術をそれ以前と以降でまるで違うものにしてしまったと言われています。「網膜的(視覚的なだけの)アートは必要なのか?」という問題提起でもあったため、絵を描くのをやめてしまった画家がたくさんいたそうです。

今更ながら歴史を知るということは、キラ星のごとき天才たちが数多く存在していたことを知ることです。私自身の凡庸さ愚鈍さも明らかにしてしまい、しんどいところもあります。しかし歴史を知るということは、「地図」を見るようなものなので、知らないわけに行かない。自分がいる分野がどのように成り立ち、自分がどのようにしていくか考えるため、自分を離れて自分を俯瞰するために。その時代に生きてきたわけではないので、あくまで平面的にしか判断出来ないけれども、地図を持つのと持たないのでは大違い。

マルセル‐デュシャンの登場からほぼ100年たったわけですが、具象絵画が無くなったわけではありません。具象絵画もそれを求める人がいる限り残り続くでしょうし、前衛も前衛とは何か?と問われ続けることでしょう。しかしその事実を知ってアートに向き合うのと、知らないで向き合うのは、中身が全く変わってくるはずです。具象絵画にも、なぜ?今ここで?という問いが生まれてくるはずです。

知ろうとしなかったり、知ったことを伝えようとしなかったり、或は間違ったことを伝えたりしたら、どうなるでしょう?人が目的地にたどり着けなくなってしまうことになる。実際伝言ゲームのように、そのようなことが繰り返された結果、歴史を歪めることになった事例もあります。歴史を知り、また伝えるのは、責任が伴います。

私が思うに近現代美術史は、特に知られていません。これは、現代アートが普及しつつある今も同じです。私は、近現代美術史を紐解くワークショップを計画しています。作家のコンセプトや感性に触れるだけではなく、他の作品に興味を持ち、自分を俯瞰する経験は、必ず自分の技術向上や制作に役に立つはずです。