2016年8月6日は、「痛みを分け合うアート」と題して、ドリス・サルセド、ハンス・ハーケ、バンクシ―といった作家を取り上げました。折しも広島原爆記念日、テーマとして悲惨に向き合うことがありました。内戦による犠牲者を作品を通して悼み続けるドリス・サルセド、社会の矛盾をグラフィカルに鋭く突くバンクシ―、組織の表面と綿密に調査した背景を対比させることで矛盾を焙り出すハンス・ハーケ、それぞれ重い現実を作品化しています。
作品紹介の後、ディスカッションに移りました。 「悲惨に向き合えるか?」という問いには、「嫌だけれど、目を背けてはいけない。」という意見に一致しました。彼らは、他人事や無関係を装い、知る責任を転嫁する幼児性は持っていませんでした。まだ、未来は捨てたものでは無い?
「言葉を自ら発せられるか?」という問いには、「発しても無駄。」「共感されない。」「陰で色々言われるのが嫌だ。」と消極的。 我々の社会は、自らも作り出している、不明瞭な閉塞感に覆われているようです。自由に発言も出来ないなんて、暗い!
「作家たちの行動を、どのように自分に引き付けるか?」という問いに対しては、「出来る範囲で、違う現実を受け入れていきたい。」とのこと。
作家たちは強い姿勢で、重い現実を背負おうとしている。それに比べれば、自分は弱く小さいと思えます。しかし悲惨な歴史が風化していくと、平和の意味も等しく風化していくでしょう。貴重な作家たちです。それを知らしめてくれるのですから。 世代の違う3作家、それぞれの時代の悲惨を突き付けてきます。私は、何時の時代も人類は悲惨に直面してきたことに、気が付きました。悲惨の無い時代など無い、何時でも人類の歴史は陰が存在する、知らなかっただけなのだ、ということなのです。