2021年3月に行ったコンクールの、優秀作品を投稿いたします。

今回、コンクールのテーマとして「毒」を選んだ理由として、
1,コロナという毒から、我々は何かを学んでいかなければならないのではないか?ということ。
2,毒を意識することで、毒を制するカタルシス(浄化)を期待したこと。弱さを意識した時に、もう弱くは無くなっている、或いは、もやもやしていたことが言葉にするとすとんと落ちるというような効果を期待したこと。
3,「生そのものが暴力的なのだ。」と投げかけるフランシス・ベーコンの表現のように、毒に対する情動が、抵抗する力を目覚めさせるのではないか?ということ。
これらがこのテーマを選んだ理由です。

以下の作品が、コンクールの傑作選です。

「木村の裏の顔」   木村俊昭
優勝作品です。作者は、本名も出すことにも、ためらいがありませんでした。ここまで率直に、自らの存在を賭して挑んだことは、天晴です。「自分の中に持つ油断や慢心といった過信する気持ち」という切り口で、「背後には愉悦に浸って呆ける顔や、猜疑心に他人をねたむ顔、内に秘めていた心情を叫ぶ顔が湧いて出てきています。普段は決して見せない顔を描くことで、自身の見ようとしていなかった二面性に気づく作品になりました。」と作品を振り返っていらっしゃいます。自分を通して、人間という存在に迫った傑作だと思います。

 

「崩れる時」
緻密に練り上げられた、絵画性の高い作品です。建築内部には、ペスト期の群衆が細かく描かれています。バランスを崩したまま宙に浮いている手前の「国」、そして遠くにも「国」が。「毒とはバランスが崩壊した状態」という切り口で、「バランスが崩壊した瞬間の社会」をコンセプトにしています。内側と外側から脅威に晒されて、今まさに崩壊しようとする危機感が、静かに迫ってきます。

 

「”愛”という毒」
「人間の愛情の根源は親子のものではないか。そして、人が生まれてきて無条件にもらえるはずの温もりがなかったら、その苦しみはどこまで続くのだろう。」という思いで描かれた作品です。これも、心の奥にしまったものに正面から向き合っていった作品、作者の真摯な向き合い方に敬意を表します。背景のバラは、美しいもの飾るものとしてだけではなく、縛り、傷付けるもののとして、愛情の裏腹な面を見事に象徴しています。

 

「毒の髪飾り」
身近なところを毒という切り口で見てみる、そして並べてみたら、「大人の世界」が展開しました。深刻にならず、ウイットを効かせコミカルに仕上げた、バランス感覚に敬服します。「毒という漢字の字源を調べてみると、女性に関連したものが多かった」「髪飾りを頭につけて祭り(神事)に奉仕する女性の姿を表した象形文字」「 質素であるべき神聖な祭りには好ましくない=毒という文字になったか?」という一説を切り口に、女性の毒をテーマに作品化しました。「自分の毒で犯されてしまった女性や、逆に毒をもって毒を制した女性もいます。結論、毒の扱い方には気をつけなはれ~」人は自分の鑑、とはこのことですね。精神的な成熟を感じさせる、粋な作品です。

 

今回のコンクールは、具体物の描写ではなく、初めて「抽象的なテーマ」を持つものとして行われました。そのため、準備も、皆さんの力の入れ具合も、審査も、テーマ同様、重いものになりました。全般的に作品は良いものばかりでしたが、ページとしても重くなり過ぎますので、全てはご紹介しません。掲載しなかった方、ご容赦ください。

 

●結びに代えて
何を持って毒とするか?薬とするか?

それは、自分にとって、人間にとって、都合がいいか?悪いか?で決められていると思います。人間以外から見た、毒と薬の捉え方は、まったく違うものになるでしょうから。

毒と薬に関して、肝心な点は、それが経験知であるということです。
毒と薬を試して、倒れたり、回復したりした人が確実にいます。生死を分ける重要な情報として、後世のために残した記録が、毒と薬の知識です。人間は、文字や映像に記録し、知識や歴史として後世に伝えることが出来ます。それが無ければ、過去の経験を活かせません。それを知らなければ、同じく過去の経験を活かせません。同じ毒に当たって、倒れていく人が多く出たり、リスクに対処出来なかったりします。経験を受け継ぐことは、とても大切なことだと思いますが、同じ轍を踏むということわざがあるのは、経験を上手く活かせないことも多いからだと思います。

毒と薬を、フィジカルな問題として捉えられば、医学的データに基づいて判断出来、covid19も時間の経過とともに判断できることが多くなっていくでしょう。しかし、最初は多くの人が恐怖に巻き込まれ、根も葉もないニュースに惑わされたり、いわれのない差別が巻き起こりました。このことを心理的な毒として忘れないことは、同じ轍をまた踏まないために、必要なことだと思われます。我々は、良くも悪くも、自意識から逃れられません。わが身良かれ、自己都合は、利己的な判断に繋がりがちです。自分たちにとっての都合をそれぞれが主張しては、共通見解が得られず、対立にしかならない。大きな偏りにもなると、悲惨な事態を引き起こすかもしれない。自意識というものは、毒にも薬にもなる裏腹なものです。心理的な問題に関しても、covid19の場合もスペイン風邪の経験を紐解いたように、長い時間を掛けて言い伝えられてきたことは、参考になるはずです。根も葉もないニュース=オオカミ少年。いわれのない差別や誹謗中傷=人を呪わば穴二つ。見事に言い当たります。

アートの毒と薬に、話を進めます。
アートも、何を持って良し悪しを判断するか、難しい分野です。世界的美術展ドクメンタのロゴには、ホワイトスワンとブラックスワンという毒と薬を象徴するものが使われています。それが、どっちつかずの曖昧なものを示唆しているとは思いません。欧米では、質問をし、説明をし、説明を聞くというコミュニケーション・ルールがあると聞きます。憶測や主観に流されず、客観的に判断しようとする流儀、そこにはナチス・ドイツの同じ轍は二度と踏まないという決意もあると感じられます。

デッサンについて、毒と薬を考えてみましょう。
デッサンは、アートを支える、技術や客観性を学ぶものです。作り手は、技術だけではなく、自分を客観視する必要があります。例えば万能感、何でも出来ると思っている幼い心理は、技術の良し悪しという判断にバイアスを掛ける、結果として技術の習得でつまづく原因になります。自己肯定感や自己基準は、毒と薬どっちにもなってしまう状況が、事実としてあります。

共通していることは、客観性が助けになることです。しかし客観性を持つというのは、簡単ではありません。自分は何処まで行っても自分でしかなく、冷静に判断しても間違うこともあります。客観性は、万能薬や確実な方法ではなくやはり経験知、経験を積み重ねていく中で発揮されていくものだと思います。今回のcovid19や、未知の領域やクリエイティブな分野だと、これまでの経験知がそのまま通用しないこともあります。ここで問われるのは、未来の経験知を生んでいくためには、チャレンジング・スピリット、行動力やモチベーションが必要だということです。それでも毒と薬の歴史があるということは、いつの時代もそうだったということであり、恐れず行動していった多くの人々がいたということでもあります。今回のcovid19の経験も、何時しか、そうやって未来に引き継がれていくはずです。「敢えて危険に身を晒せ」ということではありませんが、「毒を食らわば皿まで」というチャレンジング・スピリットと、理性的であれば、毒の中にいて毒を恐れない闘いが出来るかもしれないということ、皆さまへのエールとさせていただきます。